名刺の起源(1) 名刺のルーツを訪ねて

私たちが当たり前のように身に付け、ごく自然に他人と交換しているもの、それが名刺です。

個人情報保護という観点からすると時代に逆行する感もありますが、そんな事とは関係なく、とりわけビジネスマンの世界では必需品中の必需品となっています。

いつの頃からそうなったのでしょうか?そう言えばあまりにも身近にあると気がつかないことってありますよね。代表的なのは「奥さん」の存在ではないでしょうか(笑)

さて、これからしばらくの間、「名刺物語」という小編を配信していきますのでお付き合いの程をお願いします。当面は毎日、新しい話題を朝一番と午後二番(3時頃)に配信します。

忙しいビジネスマンの方でもサクッと読める肩の凝らないお話になるよう努めます。内容は様々な書籍を参照してまとめましたので、嘘・偽り・誇張はありません。安心して他のどなたかにウンチクとしてトリビアとして語っていただいて結構です。朝礼などのネタとしてもご活用ください。

それでは始めましょう。温故知新の「名刺物語」 はじまり、はじまり~


名刺譜(引用元
物語の始めは歴史から。近年はレキジョという言葉も生まれたように歴史に関心を持つ人が増えています。当然、名刺にも起源があり、それはすなわち「歴史がある」ということです。

西洋に目を向けると、16世紀のドイツでは訪問した相手が留守の場合に、自分の氏名を書いた紙片を残して帰る風習があり、これがヴィンテージカード(Vintage card)の始まりとされています。

一方日本では、徳川幕府の右筆(御家人)で国学者であった屋代弘賢(やしろ ひろかた、1758年-1841年)が残した「名刺譜」があります。そこには当時の名刺が貼り付けてあり、これが日本で最も古い名刺と言われています。


名刺譜の中に貼られた名刺(引用元
日本では江戸時代の文化・文政年間に氏名だけを書き入れた和紙の名刺が使われていたことがわかります。因みに、弘賢は蔵書家としても知られ、上野不忍池のほとりに蔵書5万冊を納めた書庫「不忍文庫」を築いたことでも知られています。

弘賢の没後20余年経って世の中が騒然となっていきます。攘夷か開国かで世論が真っ二つに分かれた激動の時代に突入していくのですが、その中で黒船で来航した外国との交渉にあたったのが江戸幕府の役人さんたちです。

「亜米利加応接録」(写本二冊)に、名札をお互いに交換してから談判におよんだ、という記録があり、幕府役人が日本で初めて社交用としての名刺を使った人たちではないかと言われています。【第2話へ
参考文献
事物起源辞典「衣食住編」 朝倉治彦・安藤菊・樋口秀雄・丸山信[編]
東京堂出版
画像の引用元
北さん堂雑記
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名刺の起源(2) 幕末と名刺


木村摂津守と咸臨丸
万延元年(1860年)正月、前年6月に締結された日米修好通商条約の批准のため、咸臨丸に乗船してアメリカに渡航した軍艦奉行・木村摂津守(きむらせっつのかみ)は、サンフランシスコでアメリカの歓迎委員から(自分用の)英文の名刺を贈られました。

そこには
「ADMIRAL/KIM-MOO-RAH-SET-TO-NO-CAMI,/Japanese Steam Corvette/CANDINMARRUH.」と記されていました。

Japanese Steam Corvetteは、日本の蒸気輸送船くらいの意味です。


アメリカの新聞に載った日本大使の装束
余談ですが、木村摂津守は本名が木村芥舟(かいしゅう)と言い、同じく咸臨丸で渡航した軍艦奉行並の勝海舟と同一人物かと思ったら…やっぱり別人でした。しかし、もちろんつながりがあります。

木村は咸臨丸の乗組員を選考しました。まず佐々倉桐太郎以下3名を運用方として任命し、測量方として小野友五郎以下3名を任命し、蒸気方に肥田浜五郎、山本金次郎ら軍艦操練所・海軍伝習所の関係者を選定しました。

また、従者として福澤諭吉を連れて行くことにし、通訳にはアメリカの事情に通じた中浜万次郎(ジョン万次郎)を、ついでにその頃才覚を表し始めていた勝海舟を抜擢して同乗させました。

そして、勘定所から巨費を受けて出帆準備を進め、航海の道案内と米国側との連絡のため、海軍大尉ジョン・ブルックを始めとする米国の軍人の乗艦を幕府に要請し、反対する日本人乗組員を説得して認めさせるなど、かなり押しの強い人だったようです。


ニューヨークでの日本大使歓迎レセプション
アメリカに着くと日本の名刺が珍しいので、ワシントンにあるホテルで(今で言う名刺交換、当時は名札と呼んでいましたので)名札交換攻めにあったという記録が残っています。

外国奉行として条約の批准書を交換する正使として渡米した新見豊前守(しんみぶぜんのかみ)の従者・玉蟲左大夫(たまむしさだゆう、1823年-1869年)の日記「航米日録」には「殊に我国人の名札を好み、白小札を持ち来たり名を書かさんことを求る実に親切なり。止むを得ず一次書かせば、四方より争い来たり、暫時数百枚に至る。……」とあります。


新見豊前守
それは大変でした。玉蟲さん、お疲れ様でした。

この時代には、文久二年から慶応元年にかけて幕府派遣オランダ留学生としてハーグで海軍技術を学んでいた榎本武揚(えのもとたけあき)も名刺を使用していました。彼の著書「御軍艦組/榎本釜次郎」にオランダ語で氏名、身分が書かれたものが記されています。

榎本武揚(1836年-1908年)は幕府に仕え、後に明治政府で外交官、海軍中将となった人です。大政奉還後、戊辰戦争で徳川慶喜とともに大阪から江戸へ敗走。江戸無血開城を不服として幕府の軍艦8隻を率いて北海道へ逃走。


榎本武揚
新政府が任命した箱館府知事を追放して箱館の五稜郭を拠点とし、自ら総裁となって蝦夷島政府の樹立を宣言。土方歳三とともに新政府軍に抗戦しますが敗北し、降伏して投獄されます。

出獄後は北海道開拓にあたり間もなく外交官に転じます。国際法・農業・科学技術など多方面に通じ、外務大輔、議定官、海軍卿などを歴任しました。

余談ですが、郵便マーク「〒」は逓信大臣だった榎本が会計局職員に考案させたそうです。「榎本武揚子より當時小官が建築技術員たりし故を以つてその圖案を命ぜられたり」(切手趣味 第4巻5号 1931年11月)とあります。

明治以降は活版印刷の普及とともに、商業上、社交上いろいろな名刺が工夫されるようになっていきます。浮世絵入り名刺、ダイヤモンド入り名刺まで現れました。鹿鳴館では社交場の必需品として頻繁に使われていました。

現在、日本が世界中で一番名刺をよく使う国と言われていますが、歴史的に日本で名刺が使われ始めたのは150年ほど前のことで、次に登場する中国大陸とは比較になりません。【第3話へ
参考文献
事物起源辞典「衣食住編」 朝倉治彦・安藤菊・樋口秀雄・丸山信[編]
東京堂出版
画像の引用元
Japan-NYC 1860-2010: A Heritage of Friendship
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名刺の起源(3) 中国大陸で誕生した名刺

名刺の最古の歴史は中国大陸にあります。名刺は中国で生まれ育った長い歴史を持ったものです。


劉邦
史記(※1)によると、秦の時代、劉邦(※2)が蜂起した時の話です。ある儒者(※3)が劉邦に面会を求めてきました。儒者は軍門たずねて謁(えつ)をたてまつろうとしたのです。劉邦は儒者嫌いでしたので会おうとしませんでした。それに腹を立てた儒者は使いの者にこう言います。

「もう一度行って沛公(劉邦)に言え。吾は高陽(※4)の酒徒であるぞ」と激しく叱りつけたのでした。その時の使者の様子が史記にこう描かれています。

使者は恐れて謁(えつ)を取り落とし、ひざまずいて謁を拾い、また劉邦の下に行って『客は天下の壮士である。臣を叱り、臣は恐れて謁を取り落とした』と告げたと言います。

ここで何度も出てくる謁が名刺に似たものであったと言われています。

では、その謁とはどんなものでしょうか。現在の考古学によってそれが明らかになっています。三国時代の謁はこれまで何枚も出土していますが、その中に東呉(※5)の大将・朱然(※6)のものが3枚あり、その形や書き方がはっきりとわかっています。


朱然の謁は長さ24.8cm×幅9.5cm×厚さ3.4cmの表札くらいのすべすべした木の板で、漆はかけていません。現在の名刺と大きさを比べてみましょう。

右端の行に「持節右軍師左大司馬当陽候丹陽朱然再拝」と小さい字で書き、中央の上端に大きい字で「謁」と書いてあります。「持節右軍師左大司馬」は官職、「当陽候」は爵位、「丹陽」は出身地です。

「再拝」と「謁」はひと続きで「再拝謁」となり、面会を懇願するという意味です。これは現在わかっている最も古い名刺の書き方と言えます。

では、謁はいつから始まったのでしょうか。

先程の儒者が劉邦にまみえたのは紀元前207年ですが、当時すでに秦の官職制度で「謁者」というのがあり、謁者の長官を「僕射(ぼくや)」「大謁者」と称していました。

戦国時代の蘇秦(※7)と張儀(※8)のことが史記・張儀列伝に載っています。張儀が趙の国に行き、謁をたてまつって蘇秦に面会を求めたが、蘇秦が張儀を侮辱したので張儀は怒って秦の国の側についてしまったという話ですが、これが紀元前328年なので、張儀が使った謁が最も古い木製の名刺であり、それは少なくとも二千三百年前のことになります。

謁という言葉は、目上の人や貴人に会う、お目通りする事を意味します。現代では「謁見」という言葉がありますが日常では先ず使われなくなりました。

遍談百刺という故事があります。三国時代の魏の大将・夏候淵(かこうえん)の子であった夏候栄(かこうえい)は、一日千言をそらんじ、目にしたものはことごとく覚え、七歳にして詩文を自在に読める神童でした。

それを聞いた皇帝・曹丕(そうひ)がこの子を召し出しました。百人を越える賓客が各自1枚ずつ、官爵、出身地、姓名を書いた刺を渡すと、栄はひと目で覚え、誰と話をしても一人も間違えなかったので一同驚いたと言います。

この話に出てくる「刺」が今で言う名刺のことです。この刺は漢代末期に始まり六朝時代に入って普及し、魏や晋の時代に最も流行しました。賓客がめいめいに刺を渡したのだから士大夫(したいふ)(※10)の間でかなり普及していたのがわかります。【第4話へ
※1
史記は、中国前漢の歴史家・司馬遷によって編纂された中国の歴史書
※2
劉邦は、沛県(現在の江蘇省徐州市沛県)の亭長(役場の長)であったが、反秦連合に参加した後に秦の都・咸陽(かんよう)を陥落させ、一時は関中(現在の中国陝西省渭水盆地の西安を中心とした一帯)を支配下に入れた。その後、項羽によって西方の漢中(現在の秦嶺山脈、巴山に囲まれた盆地)へ左遷され漢王となる。その後に東進して垓下の戦い(紀元前202年、項羽の楚軍と劉邦の漢軍が垓下「現在の安徽省蚌埠市固鎮県」を中心に行った戦い)に項羽を討ち、前漢を興し初代皇帝となった
※3
儒者は、儒教を自らの行為規範にしようと儒教を学んだり研究したりする人のこと
※4
高陽は、大韓民国京畿道中西部にある市
※5
東呉は、中国三国時代に孫権が長江流域に建てた王朝
※6
朱然は、中国後漢末期から三国時代の武将
※7
蘇秦は、中国戦国時代の弁論家。張儀と並んで縦横家の代表人物であり諸国を遊説して合従を成立させたとされる
※8
張儀は、中国戦国時代の遊説家、政治家。蘇秦と共に縦横家の代表的人物とされ、秦の宰相として蘇秦の合従策を連衡策で打ち破り秦の統一に貢献した
※9
夏候淵は、中国後漢末期の武将
※10
士大夫とは、中国の北宋以降で科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた者
参考文献
中国文化のルーツ 郭 伯南 他 東京美術+人民中国雑誌社
画像の引用元
同上
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名刺の起源(4) 謁と刺

名刺の起源を探訪する旅もこれが最終回です。これまでの物語で、謁と刺という現在の名刺のルーツとなる2つのものを挙げました。ではこの2つはどう違うのか。その違いを探っていく中で意外な名刺の起源に迫ります。

宋の時代になると謁と刺の区別がつかなくなって混乱する時期がありました。清代の学者・趙翼は著書の中で「漢代にいうところの謁は、漢末にいうところの刺」と言い、中国の辞書・辞源では「前漢では謁といい、後漢では刺という」と拡大解釈しています。どちらも謁と刺を同一とみなし、時代によって名称が変わったとしています。そして、これがほとんど定説となっていました。


朱然の墓(引用元
ところが、謁と刺は類似しているが同じものではなかったのです。三国時代の朱然の墓から3枚の謁が出土した時、同時に14枚の刺が出てきていて、よく調べてみると、大きさ、書き方ともに違いがあったのです。

刺の幅は3.4cmで謁の3分の1強、刺の厚さは0.4~0.6cmで謁の約6分の1ほどで、謁は幅も厚さも大きく、刺は狭くて細かったのです。謁は官爵、出身地、姓名を右側に書き、中央の上端に謁の字を書きますが、刺は中央に一行書くだけです。

謁は、形も用語も丁重で、いつも目下から目上に対して用いられ、等級的色彩がはっきりしていました。刺の方は、内容も形も簡便で親しみやすく、主として士大夫同士の間で自分の官爵、出身地、姓名を通じ合うためのものだったのです。

それでも未だ疑問が残るのは、用途は違うとは言え、小さい方も謁と呼んでもよさそうなのに、わざわざ刺としたのは何故か?この小さいことが千七百年来諸説紛々の問題となっていました。

それに対する見解が大きく分けて3つあります。


留青日札(引用元
漢代の劉煕(※11)の「釈明(しゃくみょう)」(※12)によると、刺は書写を指すとしています。「書は刺といい、書は筆をもって紙簡の上を刺すものである」

晋代の劉きょう(※13)の「文心雕龍(※14)」では、刺は意志を通じ合う意味だとしています。「刺は達であり、針でさしつらねるようなことだ」

明代の田芸衡の「留青日札(りゅうせいにっさつ)」では、刺は削った竹や木を指すとしています。
「古者竹木ヲ削リ以テ姓名ヲ書ク故ニ刺ト曰ウ後紙ヲ以テ書キ之ヲ名紙ト謂フ」
(古人は竹や木を削ったものに姓名を書いた。故に刺という。後に紙に書いたのでこれを名紙という)

数多くの証拠や文献を遺しながら、意外にも名刺の語源は謎のままです。しかし、中国に最古の名刺の起源があって、それが現在の名刺につながっていることだけは事実のようです。【第5話へ
※11
劉煕は、五胡十六国時代の前趙の最後の皇太子
※12
釈明とは、言葉の解説をした辞書
※13
劉きょうとは、六朝時代の梁の文芸理論家
※14
文心雕龍は、中国・南朝梁の劉きょうが著した文学理論書
参考文献
中国文化のルーツ 郭 伯南 他 東京美術+人民中国雑誌社
画像の引用元
Wikipedia
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文学の中の名刺


夏目漱石(引用元
これまでは名刺の起源を探訪してきましたが、今回は文学の中に登場する名刺についてのお話です。

夏目漱石(1867年~1916年)の小説「彼岸過迄」の中にひとりの書生が訪問客の名刺を主人に持ってくる場面があります。

郷里出身の政治家や実業家が、東京で勉強したいと願っている若者を自分の家に住まわせて、玄関番をさせたりこまごまとした仕事をさせていたものを書生というのですが、現代では使われない言葉になりました。

ではその小説の一場面を覗いてみましょう。
田口は苦笑した。

其所へ例の袴を穿いた書生が一枚の名刺を盆に載せて持って来た。

田口は一寸夫を受け取った儘………すぐ書生の方を見て「応接間へ通して置いて…」と命令した。
19世紀の欧米上流階級の邸宅に住みついた執事(バトラー)は来客の取り次ぎをしていました。

来客が玄関に現れて名刺を差し出すと、執事は素手ではなくお盆で受け取る慣習がありました。小説「彼岸過迄」にこれと同じ光景が描写されている点、明治になってからの日本の欧米化が、日常の所作にまで及んでいたことの証拠と言えます。

もっとも、漱石自身が文部省から命ぜられてイギリス留学をしており、現地の事情をよく知っていたから創れる描写でありましょう。

19世紀の欧米の執事たちは、銀製の皿に名刺を受け取って主人に差し出したと言われています。その習慣が日本にも伝わったとすれば、現在でも旅館や料亭などで小さなお盆でご飯やお茶を給仕するのは、この習慣からくるものかも知れません。

そう言えば、銀ではありませんがステンレスの小さなお盆に精算書を乗せて持ってきたり、料金のお釣りを乗せてもってきたりする、ちょっと丁寧なお店が少なからずあることを思い出しました。この“執事スタイル”は欧米発祥のものです。


谷崎潤一郎(引用元
夏目漱石だけではなく当時の文豪は名刺を愛用していたようです。谷崎潤一郎もその一人で、彼の名刺は何枚か残っていますが、いろいろ書き込まれていて名刺というよりもメモパッドのような趣のものです。

例えば、その一つに
 参万円「まんじ」印税の内
 右正に領収致候
 昭和二十年十二月廿八日
 新生社様  
 
という文面がみられますが、これは印税手渡し依頼、領収書として谷崎潤一郎が名刺に捺印して先方(出版社)に送ったものです。

「彼岸過迄」の名刺もおそらくそうした目的に使われたものと思われ、当時は社交のために使われるだけでなく、証明書類の肩替りもしていたのが面白いところです。

1860年代の終わり頃、日本で言えば明治維新の直後には、欧米では便箋も封筒も名刺も黒枠で囲んだものを喪中の人が使っていました。

そして、喪の期間が終わりに近づくにつれて黒枠の幅が次第に細くなり、やがて消えていくというのが常識であったそうです。

身内の人が亡くなると、暫くの間は何度も名刺を刷り直していたことになります。

「黒枠のドラマ」(真杉高之著、蒼洋社 1985年刊)に、明治初年にはすでに黒枠つき死亡広告が使われていた経緯が語られています。

欧米に渡った日本人が「あちらでは……」と、黒枠つきの名刺や便箋があることを伝えてから日本に一般化したものと考えられます。

そうすると、黒い縁取りの(一般には縁起がわるい)写真が葬儀で飾られますが、あのデコレーションの由来は日本ではなく欧米にあったということです。

昭和の初め、火事があるとお屋敷では家紋入りの高張提灯を掲げて、門の前にテーブルを置き、長方形の黒塗りの盆をその上に置いて見舞いの人に対応していました。

見舞いの人たちは、その盆の上に名刺を置いていきました。そして火事騒ぎが収まった時、新聞の下の段に「近火御見舞御礼」という広告が、黒枠の死亡広告と同じくらいの大きさで出ていたようです。

19世紀の欧米では挨拶代わりに名刺を残す風習がありましたが、それが「彼岸過迄」に登場したり、黒枠の死亡広告になったりして伝わっていったものと考えられます。【第6話へ
参考文献
男の装い 板坂 元 PHP研究所
画像の引用元
Wikipedia様
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健さんの名刺

友人に2014年11月に亡くなった俳優・高倉 健さんと親交のあった人がいます。

通称「健さん」は日本を代表する映画スターで半世紀以上にわたり活躍してきた国民的英雄でした。

代表作は映画「日本侠客伝シリーズ」、「網走番外地シリーズ」、「昭和残侠伝シリーズ」、「新幹線大爆破」、「八甲田山」、「幸福の黄色いハンカチ」、「野性の証明」、「南極物語」、「ブラック・レイン」、「鉄道員」、「あなたへ」などがあり、2006年に文化功労者、2013年には文化勲章を受章しています。

健さんは「ミスター・ベースボール」というハリウッド映画(1992年公開)に出演しています。珍しく主役ではありません。この時の話です。

友人からは何度も何度も聞かされ耳にタコができたので今度は私の番。ここで誰も知らない「健さんの秘話」として公開してしまいます。

映画のストーリーはWikipediaから抜粋しました。
ミスター・ベースボールのあらすじ

メジャーリーグ・ニューヨーク・ヤンキースの強打者だったジャックはかつてワールドシリーズでMVPを獲得した経験も持つ大物選手だが、ここ最近は目立った成績を残せず、試合直後に酩酊状態で複数の娼婦を同伴したことが明るみに出るなど、選手としてのイメージも低下していました。

そんな中、ルーキーとのポジション争いに敗れ、唯一オファーを出していた日本の球団(中日ドラゴンズ)へ移籍することになりました。

メジャーリーグへの未練を抱えたまま来日し、しばらくは日本文化や日本のプロ野球に馴染めず、プライドが高く気の荒い性格も影響してチームメイトや通訳、内山監督らと衝突を繰り返すのでした。

成績も振るわなかったのですが、監督の娘ヒロ子が実家に連れて行きます。そして、ジャックを採ったのは他人ではなく自分の判断だったという監督や周りの人物達によって少しずつチームに馴染んでゆき、お互いを理解するようになっていきます。

改心後は3割を超える打率を残す活躍を見せていましたが、ジャックの移籍要因となったルーキーの骨折に伴い、ヤンキースのオーナーからアメリカへ戻って欲しいとオファーを受けます。

しかし、恋人関係となったヒロ子からの懇願を受け、シーズン終了後まで中日に留まりプレーをします。その後、メジャーリーグに戻るというのでヒロ子と喧嘩になります。

内山監督が現役時代に残した7試合連続本塁打の記録更新が掛かった最終戦では敬遠ばかり。9回裏、監督は「打て」のサイン。だが、個人記録よりもチームの勝利を優先したサヨナラツーラン・スクイズを決め、リーグ優勝の立役者となります。

その後、現役を引退したジャックはヒロ子と共にアメリカへ戻り、デトロイト・タイガースの打撃コーチに就任。日本で学んだ経験を生かして後進の指導に励むのでした...。(あらすじ終わり)
この映画は1992年に封切られたアメリカ映画です。但し、撮影の大部分は中日ドラゴンズの本拠地・名古屋で行われました。中日ドラゴンズの内山監督役を健さんが務めました。

ヒロ子は高梨亜矢が演じ、レオン・リー(元ロッテ)やアニマル・レスリー(元阪急)などの日本でも活躍した往年のメジャーリーガー、後藤祝秀といった元プロ野球選手がゲスト出演しました。

中日ドラゴンズが当時本拠地として使用していたナゴヤ球場を中心に、各セ・リーグ球場でも撮影され、ナゴヤ球場での撮影では、のべ10万人以上もの名古屋市民がエキストラとして参加したそうです。

前置きが長くなりました。

私の友人は寿司職人から身を興し、宴席料理、仕出料理、ケータリングからレストラン、割烹を経営する飲食グループ会社の経営者です。

その友人に高倉 健さんを紹介してくれた人がいて、友人がちょうど名古屋に仕事があって行ったついでに、挨拶も兼ねた陣中見舞いに映画の撮影現場に差し入れを持って行ったのでした。

友人は大スターの健さんを前に緊張していました。ところが予想外の丁重さで、健さんの方から先に立ちあがって、頭を下げて一礼してくれたのでした。それから名刺交換となりました。

健さんはこちらの名刺を先に受け取り、それをじっと見て、今度は自分の名刺をどこからか取り出して渡してくれました。それを見て友人は「えっ!」と驚いたのですが、声を殺して我慢したと言います。

名刺には「高倉 健」と太い毛筆書体で縦に一列で書かれていました。住所も、所属も、肩書も、電話番号もない名前だけの最も単純な名刺、しかし最も明快な名刺だと、友人は振り返って言います。

「健さん」ともなると何の肩書きもいらないのです。みんなの「高倉 健」ですから。

挨拶の後に友人は、差し入れとして持って来た特上の料理を「お口に合うかどうかわかりませんが、召し上がっていただければ...」と申し出ました。

それに対して健さんは「私は専属のトレーナーから毎日の(食事)メニューを指定されています。すみません...でもせっかくですから、ありがたく頂戴してスタッフでいただきます」と返され、この対応にもびっくりしたと今でも言います。

自分に厳しいルールを課してストイックに生きている姿は、まさに表裏のない健さんらしい生き方ではないかと思います。

ところが、そんなふうに栄養をコントロールしてきた人でも寿命には逆らえません。もっと長生きしてもおかしくないのに(まだ)83歳で旅立たれてしまいました。

健さんの演じた内山監督の背番号が、亡くなった年齢と同じ「83」というのも不思議な縁を感じずにはおれません。【第7話へ

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世界のユニークな名刺

名刺の起源、文学との関わり、高倉 健さんの名刺の話(第1話~第6話)をこれまでお届けしましたが、ここで少し休憩をはさみます。

名刺もいろんな用途、目的があります。ビジネスとしての名刺があれば、自己表現のための名刺もあります。

ここでは自己表現を目的にした名刺の中で私が感動した33の名刺をご紹介します。

白と黒のコントラスト名刺

表と裏の模様がつながる名刺

白と黒のコントラスト名刺

膨らみのある立体名刺

インテリアデザイン会社のエンボス加工された名刺

マリンイメージにエンボス加工された名刺

風船に印刷された名刺(膨らませないと読みにくい)

名前以外を抜いた名刺

木製の名刺

ゴム製の名刺

部分的に光る名刺

光の反射で周りの文字が浮かび上がる名刺

立方体に変身する名刺

折り紙になる名刺

スマホと連携するメッセージ名刺

開くとビルが飛び出す名刺

開くと蝶が飛び出す名刺

ネールアートのサンプル名刺

植物を育てる名刺

実際に使えるマッチの名刺

ヘアピンを髪に模した名刺

絵画のキャンバスになる名刺

カード入れの名刺

カセットテープの名刺

本物の鉛筆がついた名刺

ピアノ調律職人の名刺

フィルムメーカーの名刺

食器メーカーの名刺

紳士服テーラーの名刺

ベーカリーの名刺

実際に食べられるビスケット型名刺

櫛として使えるヘアサロンの名刺

映画関係者の名刺

自己表現のための名刺は、好きな人なら見ているだけで心が躍るのではないでしょうか。約91mm×55mmの小さな平面に凝縮された創造性をキャッチしていただければと思います。第9話(予定)では、日本らしい自己表現の名刺が登場します。【第8話へ
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自己表現のための名刺

第7話で世界のユニークな名刺をご紹介しました。日本でもクリエイティブワークな人たちが奇抜な形状の名刺を用いています。しかし、どなたにでも幅広く使える自己表現のための名刺はあまり存在しません。

ここでご紹介する名刺「」は、素材(手漉きの越前和紙など)、印刷(活版印刷など)、加工(箔押しなど)、色柄などにこだわった自己表現のための名刺です。

古都の趣きを取り入れた京和風と斬新なモダニズムが調和した“温故知新”な名刺です。これらは(もしかすると)7月の展示会(2015年7月8日~10日)に出展されるかも知れません。よろしければ東京ビッグサイトで実物をご覧ください。(決まりましたらこの名刺物語でお知らせします)
こちらは定番のデザインです。ビジネスから個人用まで幅広く使用できます

宋朝体を使用してシャープな印象を与えています

左右対称の縦組と横組の組み合わせできちんとした印象と斬新なイメージを

行間を広めに取った少しカジュアルなデザインです

縦組ながら算用数字を使うことで受け取る方に斬新な印象を与えます

たっぷりと余白を取ることで洗練されたイメージのデザインです

横使い名刺の定番デザインです。ビジネスから個人用まで

ゴシック体を使用した横使い名刺の定番デザインです。

縦組と横組の組み合わせで左右対称のレイアウト。きちんとした印象と斬新なイメージを

行間・文字間を広くとり、行をリズミカルにレイアウト

横使い縦組みで余白をたっぷり取った空気感のある仕上がりです

社名を印象付けたい時や紙の良さを引き立たせたい時にお奨め

上に向けて飾ると幸運がたまるという馬の蹄鉄にクローバーとマーガレットをあしらい

お祝い事全般に使われる“あわじ結び”をロープでマリン風にアレンジ

結びやすく、解けにくい、男結びをロープでマリン風にアレンジ

和紙を染めたかのような味わいのあるグラデーションが白を引き立たせます

夜明けにも夕暮れにも見える美しいグラデーションに和紙の質感をプラス

太陽にきらめく夏の海、雨にぬれる草原...自然を好むナチュラルな方にぴったり

明るい朝の雨粒のような、甘く懐かしいお菓子のような、女性をイメージしたデザイン

小さな画面の中の、楽しいやりとりをイメージ。オリジナルの配色で楽しく、自分らしく

お花、お菓子、洋服にお化粧。色とりどりの女性に使ってほしい一枚です

誰からも愛される桜。淡いピンクと黄緑色が女性らしさと瑞々しさを感じさせます

空から降り注ぐように咲く藤の花。落ち着いた大人の女性にぴったりです

江戸時代から明治・大正にかけてつくられた商店の広告チラシ“引き札”をアレンジ

たくさんの福を運んでくれる恵比寿さん・大黒さんとめでたい赤色。外国人に喜ばれます

七福神のひとり、大黒天をモチーフにした“引き札”を使ったデザインです

美人をモチーフにした“引き札”を使ったデザインです。記憶に残ること間違いなしです

長寿の象徴である鶴と、海から昇る朝日でおめでたさ満点の名刺です

日の出に恵比寿、大黒、福助、鶴...これでもかこれでもかという位のおめでたさです

滝をのぼる鯉はやがて龍になる…。立身出世の象徴である鯉をモチーフにデザイン

前にのみ進み、後退しない事から「勝ち虫」といわれる縁起のよい蜻蛉をモチーフに

たっぷりの余白に、趣味や自分らしさを表現できるイラストを添えました(横長)

たっぷりの余白に、趣味や自分らしさを表現できるイラストを添えました(縦長)

日本語の平仮名の形の綺麗さ、可愛さに着目。太陽と月をイメージした丸をそえました

私はここに居ますので、と紹介できる名刺です

平仮名の形の美しさをクローズアップしたデザインです

白さを追求した紙に、飾り罫を控え目に配置。ピンク色の箔が可愛らしいです

ふかふかした白い用紙に、少し赤みのある金箔を押して、アンティーク調に仕上げました

クリップといえば銀色ですが…心にとめていただけるように艶消しの金箔でアピール

和紙の風合いを持つ里紙に、襖や衝立をイメージした金と銀の箔をあしらいました

やなぎ色の紙に、パール箔を施しています。角度によってさりげなく波模様が浮かびます

控え目にきらめくラメが施された用紙に、淡い緑色の箔を押しています

旅先でいつもと違う星空を眺めている…そんなイメージで縦型にアレンジしました

究極に白い用紙に、ごくごく控え目に箔押しを施しています

ちらりと赤がのぞく、二つ折りの名刺です。いつもの名刺よりたっぷり紙面が使えます

熱を加えて型押しすることで、押した部分が半透明になるパチカ紙を使用しています

加熱型押しを施した名刺です。きらめく星型は光に透かしてみると本当に光って見えます

和紙の風合いを持つ里紙に、さりげなく唐草模様をエンボス(浮き出し)加工しました

エアメール風にカラー印刷とエンボス(浮き出し)加工を施したデザインです

懐かしい切符を名刺にアレンジ。名刺だけでなくショップカードにも使えます

一見普通のカラー名刺ですが、実は組み立てるとベンチになる楽しいデザインです

裏面がでこぼこしない繊細な表現が可能な特殊エンボス加工を手漉き和紙に施しました

左に恵比寿さん、右に大黒さんと虎が浮き上がる特殊なエンボス加工を施しました

キルティングをイメージした透明箔と角丸加工のデザインです

名刺のような平面的な被写体を写真撮影すると立体感が失われます。押し花になったものから元の立体的な生花を想像するのは難しいですよね。

ここで紹介した名刺も、現物を見て光の反射による変化を体験しないと本当の良さが分からないものもあります。

」は7月の展示会で出展されるかも知れませんが、ご興味のある方は室町スピード印刷(TEL.075-343-4572)にお問い合わせください。【第9話へ

年賀状の起源


古代の年賀状
少し寄り道します。でも寄り道のようで実は・・・最後までお読みください。

日本に生まれ育って「年賀状を出したことがない」「受け取ったことがない」という人はいないでしょう。

この日本にどっぷりと根付いた文化は日本発祥のものかと思っていたら、名刺同様に、これもまた中国大陸から伝わったものです。

年賀状の起源を知る上では、まず「年」というものを理解しておく必要があります。


赫哲(ホーチォ)族(引用元
中国大陸東北部の少数民族・赫哲(ホーチォ)族は、ウスリー川で魚を採る生活をしていますが、毎年、その年に採ったサケの頭を1つだけ壁に掛けておいて「年」の記録を残しています。

「あれは何年のことだったかな?」などと記憶があやしい人には「どうした?何回サケを食べたのかも忘れたのか」と言うそうです。

漁労や狩猟で生活をしていた古代人の「年」の概念は、その獲物の数を記録することで生まれたようです。

唐の白居易の詩に「離々たり原上の草、一歳に一たび枯れ栄ゆ」という一節があります。古代の遊牧民族は、草原の草が芽吹いたり枯れたりすることで一年を知りました。

「何歳ですか?」と尋ねると「私は何回青草が芽生えるのを見ました」と答えるそうです。ズバリ「何草です」と答えることもあり、青草とサケは年齢の古称であったと考えていいでしょう。

やがて、人類の農耕生活が始まると、その年の作物の出来具合が最大の関心事になりました。それは商の時代(紀元前17世紀頃の中国王朝、殷とも云う)の甲冑文(亀の甲や獣骨に刻んだ文字)にみえる「年」の字が、人が身をかがめて重い穂束を背負う形になっていることからも分かります。

「穀梁伝(こくりょうでん)」では「五穀皆熟なるを有年となし、五穀皆大熟なるを大有年となす」とあり、有年とは収穫があったこと、大有年は大豊作だったことを意味します。

そんなところから「賀年」(年賀)とは豊収を祝うという意味があります。

紀元前200年(漢の高祖7年)の年初めに、中国の都・長安に長楽宮が落成しました。元旦のその日、文武百官が未明から東西二列に並んで皇帝の乗り物を待ち受けていました。


長楽宮(引用元

皇帝・劉邦の乗った輦(れん、天子の乗る車)が到着すると、文武百官は皇帝の長寿を祝って「万歳、万々歳!」と称えました。(万歳は一万年のことで、皇帝の寿命を示します)

それから皇帝が玉座に座ると、諸侯百官は身分の順にお目通りして慶びの言葉を献上しました。これを「拝年」と言います。

明、清の時代になると、こうした「拝年」の儀もすっかり形だけのものになっていました。皇帝も大臣もこの式典のために夜半から正午近くまで天地を拝し、ご先祖を拝し、君主を拝し、同僚を拝し、知人を拝し、拝礼ばかりしている状態です。

空腹でお腹はグウグウ鳴るし、足腰は痛むし、いつも疲れ果てていました。こういう年賀の風俗は宮廷だけでなく、役所や貴族高官から田舎にいたるまでに及んでいました。

挨拶回りの「拝年」が重荷になっていることは昔の人の記録でも残っています。「燕京歳時記(えんけいさいじき)」には「親しい者は家に入るが、疎遠な者は刺を投じるのみ」と記されています。

刺とは名刺のことです。名刺を置いてくることによって挨拶代わりにしたことがわかります。そして、これが年賀状の由来であると言われています。

名刺の起源は非常に古いのですが、これを年賀状に使うようになるのはずっと後のことです。年賀状のルーツが名刺であったとは驚きです。【第10話へ
参考文献
中国文化のルーツ 郭 伯南 他 東京美術+人民中国雑誌社 東京堂出版
画像の引用元
中国の少数民族
中国生活の日記
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日本の年賀状小史

小型はがき(明治8年)と
小判はがき(明治8~31年)
日本において、年の始めに親族や世話になった人や近所の人たちのお宅を回り、旧年中の交誼を感謝し、新年の挨拶を述べる「回札」は古くから行われてきた習慣でした。

年始の礼は、近隣社会、職場社会での心のつながりを強める効果がありますが、社会の発展により、交流する人や地域の範囲が著しく広がり、回礼を行うことが困難になってきました。

しかし、明治6年から発行された郵便葉書が簡便に気持ちを伝える方法として相応しいことから、緊密な人間関係を維持するため広く利用されるようになり、年賀葉書による賀詞の交換が本格的に始まりました。

でもその後、順調な発展をしたかと思いきや…なかなかそうでもありません。現代では考えられないような悲話もあります。


吹雪の中の郵便輸送(明治10年代)
明治39年1月2日、朝から一寸先も見えない猛吹雪の中を、岩手県の郵便局員・小野寺多利之丞さんは、いつもの数倍もある年賀状を持ったまま午前6時10分に配達に出発しました。

ところが、夜更けになっても帰局せず、翌日局員が捜索に向かったところ、広原の雪の中で凍死しているのが発見されました。遭難現場では、郵便物の入った鞄を懐に納め、紛失汚損を防ぐためにうつ伏せで倒れている姿で発見されたといいます。

この時代、郵便集配人、配達人、雪踏人などの郵便関係者が、吹雪や雪崩、寒気の中の事故によって、正月早々に遭難、殉職した記録が多く残っています。

新年を祝う一般家庭をよそに、年賀状を少しでも早く届けようとして、寒さ厳しい屋外で尊い一命を失った方がかつていました。年賀状が今日の発展に至った長い歴史の陰に、苦難と闘った多くの人たちがあることを忘れてはいけないでしょう。

それ以上に、年賀状にとって苦難の時代がありました。

昭和12年、日華事変が起こると、あらゆる面で耐乏生活が求められ、その流れの中で紙の消費節約と国家資源確保という国策から、11月には年賀状停止の申し合わせが閣議決定され、差出しが制約されます。

年賀切手の発行は昭和13年用を最後として中止され、15年11月には年賀特別郵便の取扱いも「当分ノ内之ヲ停止…」とすることとなり、年賀状は肩身の狭い環境の下で細々と交換される逆境の時代を経て終戦を迎えます。


昭和21年製のポスター
年賀取扱制度の復活は、終戦後3年を経過した昭和23年12月です。しかし、取扱復活の検討は昭和21年に行われており、終戦の翌年に早くも復活が検討されたのは、当時の人々が日々の食事にも事欠く困窮生活の中でも、年賀状を交換してお互いの安否を確認し、励まし合いたいという強い要望があったからです。

昭和24年12月に新しい試みとして、お年玉付き年賀葉書の発行が始まりました。これを考案したのが民間人で、京都在住の林正治さん(当時42歳)です。

大阪の心斎橋で用品雑貨の会社を経営していたのですが、この年6月にアイデアを思いつき、郵政局へ行ったところ、本省への紹介状を書いてくれたので、見本の葉書を作り、宣伝用のポスターも作り、お年玉の賞品案も考えて7月に上京します。

林さんは本省のお役人にこう言いました。

「終戦後、打ちひしがれた状態の中で、通信が途絶えていました。年賀状が復活すればお互いの消息がわかるのにと思ったのが最初の発想でした」

「それにクジのお年玉を付け、さらに寄付金を加えれば、夢もあり社会福祉のためにもなると考えました」

当時、新聞やラヂオでは、連日尋ね人の消息を求めていた時代です。


年賀葉書のポスター(昭和24年)
その後本省で会議が開かれ、林さんの案が報告されたのですが「面白い案だが、日本は今、疲弊して食べるものも食べられない時代。送った相手にクジが当たるなんて、そんなのんびりしたことができる状態ではないでしょう」などと、時期尚早であるとする意見が強かったのですが、紆余曲折を経て実施に至ります。

これは世界に類例を見ない制度になりました。考案者の林さんは後年、郵政審議会専門委員を務めますが「お年玉付き年賀葉書がこんなに長く続くとはねぇ。物のない2、3年のことと考えていましたよ」と回顧しています。

ヒット商品が生まれる背景には3つの要素があると言われています。1つ目は価格。どんなに良い商品でも高すぎたり、安すぎると消費者は買ってくれません。

2つ目が販売チャネル。良い商品を売りさばいてくれる流通網が整備されているか。これも大事な要素です。

3つ目が最も重要で、その商品が時代のニーズにマッチしているか。例えば、質素倹約が美徳の時代に“使い捨てカメラ”は売れません。しかし、消費が美徳の時代になると大ヒットした例があります。

お年玉付き年賀状は、戦争が終わって自分の生きる道が定まった次は、親しい人の安否が知りたくなるという、そんな社会のニーズを見事にキャッチしたと考えられます。

さて、年賀状のお話(寄り道)はこれにて終わり。次回から名刺に話を戻してさらに探訪していきます。

お話の最後に、2015年7月8日から東京ビッグサイトで開催される日本最大の文具商談展「ISOT(イソット)2015」に長瀬印刷、室町スピード印刷、野崎工業ミック・データサービスが共同出展します。

そこで展示されるかも知れない来年の干支「申年」の年賀状をどこよりも早くご披露して結びとします。【第11話へ





参考文献
年賀状の歴史と話題 郵政研究所附属資料館(逓信総合博物館)
画像の引用元
同上
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名刺にまつわる失敗談



筆者が社会人になったばかりの時に名刺で痛い失敗をした経験があります。

学校を卒業して、ある投資会社の営業マンとして入社したのですが、毎日、不特定多数の人に電話で投資を勧誘するという仕事でした。電話で始まり、電話で終わる毎日が延々と続きました。

そんなある日、新入社員だけを対象にロールプレーイングをやることが発表されました。

「ロールプレーン?それ何のことですか」と聞いても誰も教えてくれません。

「意味なんかどうでもいい。とにかくチームの恥にならないようにな」と先輩に言われたものです。

私は「ロールプレーン」の意味を知らずに時を経てしまい、それから数十年後に任天堂のゲームソフトの種類にロールプレーイングゲームというのがあることを知って、恥ずかしながら初めてその意味を知ることになりました。

ロールプレーイング(role playing)は「役割演技」と訳され、現実に起こる場面を想定して複数の人がそれぞれ役を演じ、疑似体験を通じて、ある事柄が実際に起こった時に適切に対応できるようにする学習方法だったのです。

暑い夏の土曜の午後にそれは始まりました。会議室のテーブルを全部壁側につけて、真ん中にテーブルを1つ置き、それを挟んで2つのイスを対面に置いて、一方に座ったベテラン(本部長、部長クラス)がお客様の役を演じ、新入社員がドアをノックして部屋に入るセールスマンという設定で実験が始まりました。

新入社員にとっては毎年恒例の厳しい洗礼の場でした。言葉使い、話の内容はもとより、わずかな動作、仕草も見逃さずにベテランがキツい言葉で指摘するという地獄のショータイムでした。

20数人いた新入社員のトップバッターは私でした。(成績の悪いものから順に指名されたのですが私がその一番でした)

私は「成績はダメでも熱意やネバリは負けない」という気持ちはあり、失敗してもいいから思い切ってやろうと開き直っていました。

ところが、そういう心の準備中に「最初は○○から。□□本部の○○。君からだ」といきなり言われて動転してしまい、一瞬頭の中が真っ白になりました。

そのまま、ドアをノックする真似をすると、対面に座っているベテランが「どうぞ、お入りください」「失礼します」

ここまでは約束通り。それから名刺入れを取り出して…

背広には内ポケットと外ポケットがありますが、外ポケットから名刺入れを取り出してしまった。誰も教えてくれなかったので、それがマナーに反する動作とも知らず、気にもせず、中から名刺を1枚取り出して、お客様を演じているベテランに渡したのです。

その後は無我夢中で相手の質問に振り落とされまいと、しがみつくように喋っていました。やっと落ち着いて話が出来るようになった時には制限時間終了。あっという間の10分間でした。

自分としては力を出し切ったかなと納得して席に戻りました。

そして、同僚たちが(成績の)順番にセールスマンを演じて5時間にも及ぶショータイムが終了し、評価の時間が来ました。

誰が良かったか、誰が悪かったか、新入社員は皆ドキドキしながら宣告を待っていました。

「最初の○○君はどうでしたか?本部長」私の評価からです。じっと耳をそば立てて聞いていました。

「名刺入れを上着の外ポケットから出していました。ビジネスマナーが基本からわかっていません。問題外です」

「名刺交換の時に自分の名刺を相手よりも先に渡そうとしていました。これもアウトですな」

「受け取った名刺をテーブルの上に置いておくのが基本。彼はすぐに名刺を(名刺入れに)しまいました」

次々とダメ出しの言葉を浴びせられてがっかりしたものです。なぜか名刺の扱いに関することばかりで、肝心の営業トークの話は出てこないので内心「トークの方はどうなんですか!」と思ったものです。

時刻は6時になっていました。全員の評価が終了し最後は社長の総評で締める時がきました。何人かの上手な話し方を褒めていました。当然、名刺で失敗してケチョンケチョンに言われた私の評価など出てくるはずはありません。

そう思っていると、最後に社長が発した言葉で、私は少し救われました。

「最初にやった誰だったか名前は忘れたが、あれはあれで元気があって良かったな」【第12話へ

名刺のビジネスマナー



第8話で「自己表現のための名刺」をご紹介しましたが、名刺の主用途は何と言ってもビジネスです。

日本は世界有数の名刺消費大国です。毎日3,000万枚、年間で100億枚の名刺が使われていると言います。

今回はそうした名刺社会における“名刺のビジネスマナー”をご紹介します。名刺をツールとして使う営業マンには常識的なものばかりですが、念のためにチェックしておきましょう。

■名刺の準備

常にキレイな名刺をサッと出せるように、名刺の交換の際には、あらかじめ名刺入れの手前(または名刺ケースの一番上)にきれいな名刺を準備しておきます。

名刺を渡す時は、格下のものから名乗るのがマナーです。また、営業活動などで出向く場合は、必ず自分から名刺を差し出すようにします。

■名刺の渡す

1.自分の名刺を両手で胸の高さに持ち、相手の胸の高さで差し出します。

2.名刺を渡す際は「私し、○○○会社の○○と申します。よろしくお願いいたします」とあいさつしながらお辞儀をします。

【注意点】
万が一、目上の方にも関わらず名刺を差し出すのが遅れてしまったら、すぐに「申し遅れましたが…」と言って差し出します。

複数人で名刺交換をする場合は、地位が上の方同士で名刺交換を行い、その後職位順に続きます。名刺入れをもったまま複数の方々と交換をする場合は、左手と名刺入れの間に名刺をはさんで準備しておくとスムーズです。

■名刺を受け取る

1.名刺入れを両手で持ちます。

2.相手の方が名刺を差し出したら軽く会釈し「頂戴します」と言いながら、両手で押し頂くようにして大切に受け取ります。その際、両手の指は揃えて伸ばし、名刺を受け取ったら親指で軽く押さえます。

受け取ったら、その場で社名・肩書き・名前等に目を通し、難しい名前や複数読み方のある名前の場合は「なんとお読みするのでしょうか?」と読み方を確認します。(読み方を確認できるのはこの時だけです)

受け取った名刺は会議中などの場合はテーブルの上に置き、なるべく早く相手の名前を覚えるようにします。

相手の方が一人の場合は、名刺入れの上に載せ、すぐしまうのは失礼にあたるので、タイミングを見計らい名刺入れにしまいます。

■同時に交換する場合

両者が同時に名刺を差し出すこともあります。

【スマートな受け渡し方法】

1.自分の名刺を両手で胸の高さに持ち、相手の胸の高さで差し出します。

2.右手を自分の名刺に残したまま、左手で相手の名刺の左端を持ちます。

3.相手の方が自分の名刺を受け取ったら、次に左手を添えて自分の方へ引き寄せます。

■名刺がきれたら…

名刺交換のマナーとして一番守らなくてはならないことは、自分の名刺を切らさないことです。そのため、出かける前やお客様をお出迎えする前には必ず必要枚数を用意しておくようにします。特に出張の際は注意が必要です。

万が一、名刺が足りなくなってしまったら「申し訳ございません、名刺を切らしてしまいまして」とお詫びをし、相手の名刺を受け取る際に口頭で社名と名前を告げるようします。そして、次回、自分から必ず名刺を渡すようにします。

■名刺の管理と活用法

名刺は、相手の連絡先や所属部署などの情報が記載されている大切な情報源です。相手のことを忘れないために特徴をメモとして書き込むことや、次回の面会日時をメモすることにも使えます。これは相手の前で行うと失礼にあたるので、帰社後に行うようにしましょう。

■不用な名刺は…

不用になった名刺は、シュレッダーにかけるなどして悪用されないように配慮します。

■弔事、慶事で名刺を渡す場合

弔事、慶事でも名刺を渡す機会があります。その時のマナーを押さえておきましょう。

【弔事】
右上に「弔」や「謹弔」と書き、左下の角を表側に向けて折り、お渡しします。

【慶事】
右上に「御祝」「御年賀」と書き、角は折らずにお渡しします。

以上、参考にしてください。名刺は切らすと格好がつきません。くれぐれも早めの調達を・・・【第13話へ

参考サイト
印刷屋さん にぶんのいち
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現代名刺事情(悩ましい4つの問題)

この物語も、名刺の起源から始まって様々な歴史をたどりながら、また寄り道もしながら、ようやく現代に戻ってきました。

ここからは、名刺の最も一般的な使われ方であるビジネスカードの最前線に斬り込んでいきます。

「時は金なり」という言葉があるように、私たちが人生で使える時間は長いかも知れませんが限りがあります。

人として肉体的・精神的に最も充実した時間帯の多くを、私たちは「社会」の中で費やすことになります。

その長い長い社会生活で、例えビジネスパーソンでなくとも、名刺を見たことがない人に会えたとしたらそれは奇跡であり、誰でも一度以上は名刺をもらった経験があることでしょう。

名刺はビジネスマンの「顔」とも「表札」とも言われ、名刺交換後は名刺ブックに収納されて再び取り出されることはなくても大切にキャビネットに保管されます。

名刺は日々他人に渡されて消耗品のように撒かれます。その一方で、受け取った後は大事にされるという、実に不思議な存在です。

比較的大きな会社になると、総務や業務という部署で全社員の名刺を管理しています。会計年度が4月であればその約2ヵ月前(2月)になると部署全体に緊張感が漂います。

そう、“魔”の人事異動シーズンがやってくるからです。

“魔”とは大袈裟な、と思われるかも知れませんが、総務や業務の方にとってはそのくらい深刻な時期が毎年やってくるのです。特に大きな組織改編があるとお先真っ暗(?)な気分になります。

どんな問題があるのか?1つ目は「名刺が遅い」という問題です。

自分のものなのに自分で自由にできないジレンマはありませんか?欲しい時に注文して、最短で入手できないとビジネスマンにとってはストレスです。

また、営業マンから「早く早く」と催促されるのも、総務・業務にとっては毎度の事ながら、いい気分ではありません。

2番目は「校正作業が一時に集中」という問題です。

名刺をコピーして新しい部署、役職、住所などを記入してFAX。2~3日すると印刷会社からは見本がFAXされてきます。

これを手直しして再度FAX。校正が終わったら次は見積りをもらい、上司に報告して承認を経て業者に発注。

こんな単純な繰り返しが何十人、何百人と...延々と続くのです。

3番目も校正に影響する問題ですが「レイアウトの変更がよく起こる」です。

会社の方針が変わる、取扱い品目が変わる、部署や役職が変わる...、すると名刺に記載する内容が変わってきます。一行だったものが二行に増えたり反対に減ったり、文章が挿入されたり...と体裁(レイアウト)の変更が起こります。

その度に印刷会社との間で校正作業(コピー、FAX、見積り、発注など)が発生します。

4番目は「コーポレートアイデンティティの乱れ」です。

支店、営業所単位で個別に名刺を作成するケースも多くみかけますが、印刷の色は環境によって微妙な差異があります。その狂いが代を重ねていくうちに目に見えてわかるほどの差異にもなります。

ロゴマーク、ISOマーク、リサイクルマーク、資格ロゴなどが不統一になるとCIがバラバラになってしまいます。

ここまで、4つの大きな問題を挙げましたが、細かい問題はまだまだあります。総務・業務が全国の各部門をとりまとめて印刷を行う場合に、経費の振り分けという面倒な作業が発生して、これも大きな問題です。

現代の名刺は、長い歴史を経て、熟成されたものと思いきや、問題山積みになっているようです。

何か考えないと、人件費、ランニングコスト、管理コストが膨らむことはあっても削減できそうもありません。次回はその解決方法を探ります。【第14話へ

野崎工業と名刺

さて前話では、現代の名刺印刷が抱える問題を提起したわけですが、ここから少し脱線します。しかし、すぐに戻ってきます。

大阪郊外の大東市に「野崎」という地があります。「野崎」は大阪の人には慣れ親しまれた地名で、5月初旬になると多くの老若男女がこの地にある野崎観音を参拝する「野崎参り」という行事が、天和2年(1682年)から330年以上続いています。

また「野崎」は、マイクの前で直立不動で歌った昭和初期の大歌手・東海林太郎氏の野崎小唄にその名を残す歴史ある地です。

上方落語の演目にも野崎参りがあり、登場人物の背景として描かれています。上方落語の重鎮、桂春団治さんや笑福亭松之助さん(明石屋さんま氏の師匠)などが得意としています。

通称「野崎観音」の慈眼寺(じげんじ)は曹洞宗のお寺です。JR学研都市線・野崎駅で降りて、野崎観音に参拝して、そこから飯盛山を登って野崎の隣の四条畷駅に下りてくる登山道は、地元の人々に広く利用されるハイキングコースとなっています。

観光案内をしているわけではありませんがもう少しお付き合いを。野崎の近くにある飯盛山にも古い歴史の跡があります。

南北朝時代の1336年、湊川(神戸市)の戦いで5万の足利尊氏軍と戦って破れた楠木正成は自刃して果てますが、その嫡男正行(まさつら)は湊川の合戦以後も父の遺訓を守って足利氏に対抗します。

1348年、足利軍6万の大軍と(野崎に隣接した)四条畷(しじょうなわて)で対峙し、正行軍はわずか3千騎で決戦を挑み、朝10時頃から夕刻に至る激戦の末力尽き、父と同様、弟正時と刺し違えて自刃します。この楠木正行の御霊が飯盛山山麓の四条畷神社に祀られています。

楠木正成の「大楠公」に対し、正行は「小楠公」と敬称されて現在に至っています。 日本の教科書にも登場する歴史的な地の中に「野崎」はあります。

野崎工業株式会社は、そんな「野崎」の名称を冠して昭和43年に創設されました。

携帯電話もパソコンもない時代でした。最初は電話帳印刷からスタートし、電話帳が廃れると並行してビジネスフォーム(帳票)印刷にシフトし、さらに現在はビジネスフォームに加えて一般商業印刷からオンデマンド印刷(多品種少ロット生産)まで幅広く手がける印刷会社です。

今から30年ほど前に遡りますが、印刷がまだ熟練工の伝統技によって支えられていた時代がありました。

その当時、野崎工業はパソコン(MS-DOS)上で稼働するプロ仕様の文字組版システムiPro(アイプロ)の関西総代理店として、周辺ソフトウェアの開発をしながらシステムを販売していました。

昭和の終わりから平成の始めにかけて、iProは人間に近いきめ細かく高度な文字組版が評判となり多くの印刷企業に採用されるヒット商品となったのでした。

その後同社は、緻密な組版技術を最大に生かせる分野として「名刺」に着目し、その技術を応用した「名刺組版システム」の開発に乗り出そうとしていました。

そんな折偶然に、ある自動車メーカーから「社内で各自が自分で名刺を発注できる仕組みが作れないか」という相談を受け、当時黎明期だったインターネットと融合させることを発案し、他に先駆けてインターネットを活用した名刺発注システムを発表します。

それが UniC@rd(ユニカード)です。
UniC@rdは、テキストやイメージをレイアウトする程度の市販ソフトとは全く異なるプロ仕様の組版技術に基づいた「均衡」と「調和」のとれた名刺作成を見事に実現して高い評価を得たのでした。

次回、そのUniC@rdがどのようなものなのかを説明していきます。【第15話へ

UniC@rd(ユニカード)とは


インターネットが社会全体に広く普及した結果、これまで人間が中心となっていた業務やサービスが大幅な合理化を達成しました。

ほとんどの買い物はネットショップで出来るようになりました。目的地の地図はいつでもネットから無料で手に入ります。銀行の振込みもネットなら自宅にいながら出来ます。航空機の座席もネットから瞬時に予約できます。印刷物の作成もネットから…例を挙げていくとキリがありません。

ネットは、モノと情報の流通コストと時間を大幅に短縮しました。逆に言えば、ネットを使用しないで既存の業務やサービスを合理化することは不可能だと言えます。

ところが世の中にはまだ、ネットと無縁か、または活用していない分野が残っています。「企業名刺」もその1つです。

ここで「企業名刺」と敢えて「企業」を頭に付けたのは、個人レベルでパソコンとプリンタを使ってマイ名刺を作成するホームユースと区別するためです。名刺とひとことで言う場合はこの「企業名刺」のことです。

なぜ名刺印刷にネットが活用されていないのでしょうか?と言うと「待ってくれ。名刺の注文をネットでやっているショップはいつくもある」という声が聞こえてきそうです。

しかし、それは企業名刺とは言いません。何故なら、会社名、部署、役職、電話番号...という共通項目と、名前、メールアドレスという個別項目が混在して、しかも一人一人全てどこか異なるのが企業名刺です。

そんな複雑なものを一定ペースで、一定量コンスタントに作り続けるには、今のネットショップの一期一会的処理方法では対応できないからです。(一期一会「いちごいちえ」は茶道に由来することわざで、機会は二度と繰り返されることがないという意味)

もし対応できるものがあるとしたら、合理化の意識を持った、あるいは必要に迫られた企業が、組織全体で名刺発注のルールを統一し、トップが率先してそれを実践した場合です。

名刺を使う立場の体制が必要と同時に、一方では、企業名刺として恥じない均衡(バランス)と調和(ハーモニー)のとれた美しい(プロポーショナルな)文字組みを実現する“システム”の存在が必要です。

この両者(企業側の意志と実用的システム)がマッチすると、WEB名刺発注システム導入による印刷コストと人件費削減、総務・業務の管理コスト削減が容易に達成できます。

それは導入事例からも明らかで、UniC@rdを全面的に採用している会社には次のような各業界・分野を代表する優良企業がラインナップされていますが、1社として例外なく大きなコスト削減、時間短縮の効果を生んでいます。
  • コンビニエンスストア
  • 旅行代理店
  • イベント会社
  • プリンターメーカー
  • 自動車メーカー
  • 半導体メーカー
  • 広告代理店
第13話で名刺印刷に関して発生している4つの問題(長いリードタイム、変更が極端に集中、頻繁な修正、CIの不統一)は、UniC@rd導入で即座に全て解決します。
総務・業務の方で、こうした問題を抱えているならUniC@rdを検討することをお奨めします。次回は、UniC@rdの処理の流れを追いかけていきます。【第16話へ

UniC@rd(ユニカード)の処理フロー

インターネットでサッと入力し、プレビュー画面で仕上がりを確認し、上が承認したらすぐに印刷!これがUniC@rdです。使う人がストレスを感じる場面は皆無です。

注文から印刷、出荷までをワンラインで出来るのも印刷工場を持った野崎工業ならではのメリットです。システムは利用するが、印刷は自社で行うといったことも可能です。

それではフローを順に見ていきましょう。

【1】システムを起動した直後の画面です。「新規作成」を指定すると新しい名刺データを作成できます。名刺データ作成済みの場合は、名簿から名前を選択してカートに入れるだけです。


【2】新規作成の場合は名刺内容を入力します。難しい漢字にはルビを振ったり、外字を選択することができます。


【3】プレビューを表示します。名刺の仕上がりを個人個人でチェックできるので余分な校正作業はなくなります。


【4】発注する名刺をカートに入れて数量を入力します。


【5】発注者情報を入力します。名刺の本人と発注者が異なるケースにも対応しています。


【6】最後に「承認申請」を指定して操作完了です。承認する上司などに承認を求めるメールが自動的に配信されます。承認者がメール上のURLを指定すると承認が完了します。


承認された名刺はUniC@rdセンターに印刷準備完了データ(面付けデータ)として保存、管理され、印刷が実行されます。

名刺物語も終わりが近づいています。次回は最終話、名刺とは何かを考察します。【第17話へ

名刺は究極のソーシャルメディア

名刺物語のサブタイトル「名刺は究極のソーシャルメディア」が名刺のこれからを占うキーワードであると考えます。

名刺の不思議性、すなわち、消耗品のように外部に渡して消費していくものだが、新聞の折り込みチラシや街頭で配布されるパンフレットのように即日ゴミに変わることなく、むしろ大切に名刺ブックに保管されて眠りにつく...これは不思議な話です。

あまたある印刷物の中で名刺だけの特殊性と言えるでしょう。

それは名刺が人格のような要素を持っているからと考えられます。その人の分身のようなものです。だから、むやみにゴミ箱に入れにくいのだろうと思います。

仮に分身のような存在なのであれば、いつまでも意味を持つ名刺の作り方があります。それはAR(拡張現実)を利用した名刺です。

拡張現実とは、人が知覚する現実環境をコンピュータにより拡張する技術のことです。名刺にあてはめると、名刺の裏面などに(アプリを起動させた)スマートフォンをかざしてやることで名刺の上にで動画が再生されたりする。

例えば、次のようなものです。
そこに再生されるコンテンツはクラウドにアップします。だから、コンテンツを変えてアップしなおすと、相手が持っている名刺のARが新しいものに変わる…名刺の概念が変わる?可能性もあります。

課題として、コンテンツが簡単にできる、コストをかけないで作れる必要があります。これは現状ではまだまだです。

ソーシャルネットワーキングサービスが爆発的な広がりをみせ、人と人がネット上で網の目のように縦横無尽につながる時代になりました。

そういう世界では名刺の代わりに個人情報(プロフィール)がページ内に記載されていますが、企業名刺とはちょっと次元が違います。

名刺がソーシャルメディアになる日はまだ遠い先のことかも知れませんが、いずれそうなって欲しいと願いながら、これにて「名刺物語」全17話の幕を閉じます。